るっつのブログ

るっつが日々思ったこと感じたことを書き綴ります。

お金の反対語は?

結論

お金の反対語は刑法である。

この一見「訳の分からない」結論に至った考え方を以下に説明する。

道徳とは何か?

一見、お金とは関係なさそうだが、話の順序としてまず「道徳とは何か?」を考えてみる。 辞書的な定義によると、

人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

となっている。要するに道徳とは

  • 悪い行いはできるだけしないようにしよう。
  • 善い行いを積極的にしよう

という事に尽きると思う。

「善い行い」「悪い行い」とは何か?

これは倫理学的な問いかけであり、深く考えると難しい問題だが、突き詰めると

  • 悪い行い → 人の迷惑(痛み・苦しみ・悲しみ・傷つき・困惑・不安・心配・損害・危害)になる行い
  • 善い行い → 人の役に立つ(喜び・楽しみ・嬉しさ・健康・安心・便利・利益をもたらす)行い

と言えると思う。

道徳の欠点

道徳には次の欠点がある。

  • 道徳は法律のように明文化されていない。そのため人によって道徳観(何が善で何が悪か)は多かれ少なかれ違う。
  • 道徳を説くだけでは人は道徳を守ってくれない。

道徳は人々の心の中にある「人としてあるべき暗黙のルール(=不文律)」であり、明文化されていない。なので人によって道徳観が異なることはよくある。例えば「如何なる理由があっても体罰はいけない」と思う人がいれば「時と場合によっては体罰も必要」と考える人もいる。

また、道徳は子どもの頃から親や教師や友人との付き合いの中から自然と育まれ身につくものである。しかし道徳だけでは往々にして人は道徳を守ってはくれない。例えば窃盗や万引きをしても警察が無かったら取り締まる人がいないので、悪いことし放題の荒れた世の中になってしまうだろう。

全ての道徳を実践する必要は無いが、社会には最低限守って欲しい道徳というものはある。例えば「人を殺してはいけない」等。そこで最低限の道徳を人に実践してもらうためのシステムが社会には必要となる。

最低限の道徳を人に守ってもらうためのシステムとは?

  • 悪い行いの抑止 → 刑法という罪と刑が明文化された(罪刑法定主義)システムの導入によって悪いことをしたら罰せられることにする。これにより犯罪(社会的に最低限しないで欲しい悪行)の抑止力となる。
  • 善い行いの強制と推進 → お金(と私有財産制)というシステムの導入によって、「人の役に立った量=稼いだお金の金額」という定量化と明文化がなされる。そして「最低限に自分が生活できるくらいには他者のために働いて(他者貢献して)ください」という強制力となる。さらに他者に価値を提供すればするほど得をする(稼げる)ので、善いことを積極的にするためのモチベーション・推進力となる。 → 「お金の役割とは」

このように考えると「お金」と「刑法」は道徳を中心としてちょうど反対の関係にあることが分かる。

まとめ

人に最低限の道徳を実践してもらうための手段として社会は「刑法」と「お金」というシステムを導入したという考え方が成り立つ。 よって「お金の反対語は刑法である」と言えるのではないだろうか。

なお今回は「刑法」という言葉を使いましたが、もっと広義の意味では単純に「法」と言っても良いかもしれません。(例えば、民法でも配偶者の不貞行為は慰謝料の対象となるので浮気という望ましくない行為の抑止力となり得ます) しかし法の役割は悪い行いの抑止力としてだけでなく、社会の秩序を守るための様々な役割があります。そこで法の中でも悪い行いの抑止力となる最たるものとして今回は「刑法」という表現を使いました。また、厳密には道徳と刑法はイコールではありません。例えば大麻は日本では違法ですが、世界では合法化傾向にありますし、所持するだけでも道徳にもアウトか?というとちょっと微妙ですよね。

「お金 反対語」でググってみても、私と同じ考えの意見は見当たらなかったので「この独自の理論はもしかして大発見?」と思って書きとめておくことにしました。

中には「お金の反対語は自給自足」という意見もありました。お金の目的が「他人に力を借りるため」だとすれば他人の力を全く借りない自給自足も確かにお金の対極にありますので、それもまた真実だと思います。