るっつのブログ

るっつが日々思ったこと感じたことを書き綴ります。

カレー草枕

東京の新宿3丁目にある、カレー店草枕に来ました。

ある日コンビニに並んでいたスパイスカレー専門のグルメ雑誌に載っていたので、試しに1回食べに来たら、これが美味しくて嵌ってしまいました。 後から知ったのですが、石原さとみさんも大絶賛のカレー店だそうです。今では私の大好きなスパイスカレー店のひとつです。

今日はなすとまとチキンカレー(辛さ5番)とラッシーを注文しました。

なすもトマトもチキンもたっぷり入った具だくさんの欲張りカリーで大変美味しいです。 なすとトマトと言えば夏野菜のイメージなので、夏だけのメニューだけなのかと思いきや一年中食べられます。 カレーを食べた後の口の中の辛さを、ラッシーがいい感じに中和してくれます。 カウンターの奥には「世界のカレー図鑑」のような本が何冊か並んでいて、 待っている間にパラパラめくって読んで、カレーってインドだけじゃないんだ、なるほどな~って思いました。

インド式チャオカリー(夢民)

東京の汐留にある、インド式チャオカリーの店に来ました。

この店の前身は、私の学生時代、早稲田大学の大久保キャンパスの近くにあった夢民という小さなお店だったのですが、 その後フランチャイズ化してチャオカリーとなったものです。初めて夢民のカレーを食べた時は 『こんな美味しいカレーが世の中にあったのか!』と感動して病みつきになって通い続けたものです。 チャオカリーは以前は池袋・新宿・江古田にも店舗があったのですが、2023年現在では閉店して汐留店のみです。 オリジナルの早稲田の夢民は店主さんの高齢化により閉店しています。大変お世話になりました。そしてお疲れさまでした。

今日はポパイベーコンカリーを食べました。

ほうれん草、トマト、ベーコン、スクランブルエッグがたっぷり入った具だくさんのカリーで大変美味しいです。 辛さは5番にしました。昔はいつも10番を注文してましたが、年齢のせいか余り辛いのが食べられなくなりました。 初めてチャオカリーを食べる方には、このポパイベーコンカリーかベーコンエッグ野菜トマトカリーがオススメです。 ベーコンエッグの美味しさとトマトの酸味がこんなにもインド風カリーに合うのか、と実感していただけると思います。

チャオカリー(公式ホームページ)

お金の反対語は?

結論

お金の反対語は刑法である。

この一見「訳の分からない」結論に至った考え方を以下に説明する。

道徳とは何か?

一見、お金とは関係なさそうだが、話の順序としてまず「道徳とは何か?」を考えてみる。 辞書的な定義によると、

人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

となっている。要するに道徳とは

  • 悪い行いはできるだけしないようにしよう。
  • 善い行いを積極的にしよう

という事に尽きると思う。

「善い行い」「悪い行い」とは何か?

これは倫理学的な問いかけであり、深く考えると難しい問題だが、突き詰めると

  • 悪い行い → 人の迷惑(痛み・苦しみ・悲しみ・傷つき・困惑・不安・心配・損害・危害)になる行い
  • 善い行い → 人の役に立つ(喜び・楽しみ・嬉しさ・健康・安心・便利・利益をもたらす)行い

と言えると思う。

道徳の欠点

道徳には次の欠点がある。

  • 道徳は法律のように明文化されていない。そのため人によって道徳観(何が善で何が悪か)は多かれ少なかれ違う。
  • 道徳を説くだけでは人は道徳を守ってくれない。

道徳は人々の心の中にある「人としてあるべき暗黙のルール(=不文律)」であり、明文化されていない。なので人によって道徳観が異なることはよくある。例えば「如何なる理由があっても体罰はいけない」と思う人がいれば「時と場合によっては体罰も必要」と考える人もいる。

また、道徳は子どもの頃から親や教師や友人との付き合いの中から自然と育まれ身につくものである。しかし道徳だけでは往々にして人は道徳を守ってはくれない。例えば窃盗や万引きをしても警察が無かったら取り締まる人がいないので、悪いことし放題の荒れた世の中になってしまうだろう。

全ての道徳を実践する必要は無いが、社会には最低限守って欲しい道徳というものはある。例えば「人を殺してはいけない」等。そこで最低限の道徳を人に実践してもらうためのシステムが社会には必要となる。

最低限の道徳を人に守ってもらうためのシステムとは?

  • 悪い行いの抑止 → 刑法という罪と刑が明文化された(罪刑法定主義)システムの導入によって悪いことをしたら罰せられることにする。これにより犯罪(社会的に最低限しないで欲しい悪行)の抑止力となる。
  • 善い行いの強制と推進 → お金(と私有財産制)というシステムの導入によって、「人の役に立った量=稼いだお金の金額」という定量化と明文化がなされる。そして「最低限に自分が生活できるくらいには他者のために働いて(他者貢献して)ください」という強制力となる。さらに他者に価値を提供すればするほど得をする(稼げる)ので、善いことを積極的にするためのモチベーション・推進力となる。 → 「お金の役割とは」

このように考えると「お金」と「刑法」は道徳を中心としてちょうど反対の関係にあることが分かる。

まとめ

人に最低限の道徳を実践してもらうための手段として社会は「刑法」と「お金」というシステムを導入したという考え方が成り立つ。 よって「お金の反対語は刑法である」と言えるのではないだろうか。

なお今回は「刑法」という言葉を使いましたが、もっと広義の意味では単純に「法」と言っても良いかもしれません。(例えば、民法でも配偶者の不貞行為は慰謝料の対象となるので浮気という望ましくない行為の抑止力となり得ます) しかし法の役割は悪い行いの抑止力としてだけでなく、社会の秩序を守るための様々な役割があります。そこで法の中でも悪い行いの抑止力となる最たるものとして今回は「刑法」という表現を使いました。また、厳密には道徳と刑法はイコールではありません。例えば大麻は日本では違法ですが、世界では合法化傾向にありますし、所持するだけでも道徳にもアウトか?というとちょっと微妙ですよね。

「お金 反対語」でググってみても、私と同じ考えの意見は見当たらなかったので「この独自の理論はもしかして大発見?」と思って書きとめておくことにしました。

中には「お金の反対語は自給自足」という意見もありました。お金の目的が「他人に力を借りるため」だとすれば他人の力を全く借りない自給自足も確かにお金の対極にありますので、それもまた真実だと思います。

お金の役割とは?

お金とは何か?

ググってみると・・・

人間社会において、欲しいものや必要なものを手に入れるために使われる物体及びその概念である。また、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持つ。

その通りなのですが、もう少し噛み砕いて説明できないか? と思いました。

お金は使うものでもあり、稼ぐものでもあります。

両方の意味を含んだ説明がしたい、と思いました。

自分が理解している「お金の役割」とは・・・

  • 誰かが誰かの役に立つときの価値の交換をスムーズにする。
  • 最低限、自分が生活できるだけの分は、他人の役に立つことをしろ、という強制力として働く。
  • 他者の役に立てば立つほど報酬がもらえるという動機づけ。

。。。などが思いつきます。

まとめると

お金の役割とは・・・

人が人のために何か役立つ(=他者への貢献)という概念を定量化して公平に比較できるようにした上で、それをたくさん起こしやすくして(働くことへの動機付け・流動性の向上・分業体制の確立・自由競争の促進)、社会全体の便益を向上させること。

と言えるのではないでしょうか。

元ZOZOの前澤さんは、『お金とはありがとうの数だ』と言ってましたが、私もその通りだと思います。

温厚な人と人格者の違い

僕は、今まで『温厚な人 = 怒りっぽくない人 = 人格者』と思っていた。 でも、最近になってそれが間違いだと思うようになった。 正しくは、

  • 人格者 = 怒りのツボが小さい人 + 怒っても冷静さを失わない人
  • 温厚な人 = 怒りのツボが小さいだけの人

だと思うようになった。 要するに、「怒りのツボの大きさ」と「怒っても冷静でいられる」ことは別の能力なのである。 「怒っても冷静でいられる」とは、怒っても感情をむき出しに言動しないで理性を失わないことである。 周りから温厚だと言われて滅多に怒らない人でも、いざ怒りのツボに嵌ると 人が変わったように、キャンキャン腹を立てて小学生みたいな暴言や失言をする人がいる。 つまり、普段は怒りたくなるような衝動にかられることが少ないから、温厚に見えるだけなのである。 したがって、「温厚なだけの人」は人格者とは言えない。

本当の人格者は、たとえ怒りのツボに嵌っても、決して暴言や失言を吐くなど幼児性を見せることはない。

そして「温厚なだけの人」は、自分は温厚だと思っているし周りからも温厚だと言われるので、 「自分は人格者なんだ」と勘違いしている人も多いように思える。

なぜ鏡に自分を映すと左右が逆になるのか?

これって良い問題だと思いませんか?

経験的には当たり前だと思っていることだけど、いざ説明しろと言われたら、「う~ん」とても難しい。

でも、子どもでも大人でも同じ土俵で考えることができる。

頭の体操にちょうどいいと思って、これについて書いてみることにしました。

答え

錯覚です。 左右は逆になっていないしもちろん上下も逆になっていない。 逆になっているのは前後(奥行)なのです。

人は自分を鏡に映したとき、自分を180度回転して向かい合っている自分がいる、 と想像(錯覚)するのです(もちろん実際には鏡に映った自分は180度回転した自分にはなっていません)。 その像(左右逆の像)と鏡の中の像(左右正しい像)比較するから左右が逆になっているように錯覚するのです。 つまり鏡が左右逆にしているのではなく人の頭の中で左右逆(180度回転)にしているのです。

なぜこのような錯覚を起こすのかというとに人間は左右対称な生き物であるからでしょう。

いかがでしょう? この問題についてベクトルの概念を使って説明する人もいますが それだと数学的になって子どもには難しいと思うので、上記のような説明が一番しっくりくるのではないでしょうか。

人は何のために生きているのか?

結論

(客観的な)生きる目的など無い。生きるために生きている。

生きて何をするか?個人の生きる目的は自由に決めて良いし決めなくても良い。

 

理由

「地球は何のために周っているのか」と同じ答えと考えられる。

「この自然物は何のために存在するのか」という点において両者は同じ類の質問である。ただ地球は物理的な性質により周っているだけで地球自身に選択の余地がないのに対して、人間は自分の意思で行動を選択できるので生きる目的も自身で決めることができる、というだけの違いである。

 

人はなぜ「人は何のために生きているのか」を考えるのか

  1. 生きていることに虚しさを感じるから。答えを知ることで充実した人生を送りたい。
  2. 昔に比べて職業や文化が多様化したため、生きて何をするかの選択肢が多すぎて何をして暇を潰せばいいか分からないから。やりたいことが見つからないから。
  3. 哲学的な興味から。

人は幸せになるために生きているのではないのか?

では裏を返すと不幸なまま死んだ人は皆んな無意味な人生だったというのか。世界の貧困や飢餓や紛争で苦しみ幼くして次々と死んでいく子供たちを前にしても、あなたは「君たちは幸せになるために生まれてきたんだよ」と説けるのか。確かに人は皆んな幸せになりたいという願望を抱いているとは言えるが、それが万人に共通する人生の目的かというと首を傾げる。

 

「生きるために生きている」では答えになってないのではないか?

A: 「君は何のために勉強しているのか?」

B: 「良い大学に入るためです」

A: 「何のために良い大学に入るのか?」

B: 「良い会社に就職するためです」

A: 「何のために良い会社に就職するのか?」

B: 「良い給料を貰うためです」

A: 「何のために良い給料を貰うのか?」

B: 「良い家庭を築いて良い暮らしをするためです」

A: 「何のために良い家庭を築いて良い暮らしをするのか?」

B: 「人生の勝者になるためです」

A: 「何のために人生の勝者になるのか?」

B: 「人生の勝者になれば幸せになれるからです」

A: 「何のために幸せになるのか?」

B: 「。。。???」

このように突き詰めていくと「それ以上の目的がないという最高の目的」というものがある。「生きるため」という目的もこの「最高の目的」だと考える。人間にとって「幸せになるための目的など無い」ように神様(いるとすれば)にとって「(人が)生きるための目的など無い」のではないか。

 

どうせ人は皆んな死ぬのだから生きても意味がないのでは?

それは地球も同じ。地球にも数十億年と言われる寿命があり、最後は太陽に飲み込まれるという説もある。人間も地球も含めて万物はいつかは滅ぶ。物理学的には素粒子レベルでの離合集散を繰り返し、新しい物質ができては滅び、形態を変えながら宇宙は続いていく。その宇宙ですら寿命があると言われている。だから人は自分が生きていることを宇宙の奇跡の一部だと思って、与えられた刹那的な生を全うすることだけに集中すれば良いのだと思う。

 

生きる目標や夢がない人には存在価値がないのか?

「犬や猫には存在価値がないのか」と同じ。全ての生物は生きていること自体に意味がある。ただし全ての生物のうちで人類だけが「生きて何をするか」を自己決定できる能力を持つに至ったので、夢や目標がある方がより人間らしい生き方であるとは言える。